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●戦後復興は昭和天皇 の全国ご巡幸から 始まった!! ☆大東亜戦争の責任を 一身に負われ、 国民を慰め励ましたい御心で ご視察日数165日、 全コースは3万3千キロに およんだ! ◎ 戦の わざはひうけし 国民を おもふこころに いでたちてきぬ ◎ わざはひを わすれてわれを 出むかふる 民の心を うれしとぞ思ふ ◎ 国をおこす もとゐとみえて なりはひに いそしむ民の 姿たのもし (昭和21年の昭和天皇御製) 「全国ご巡幸の大御心」 昭和天皇は、戦にやぶれ焦土と化した全国を巡り、国民を励ましたいとの、ありがたい次のような思召しを終戦の年の10月侍従に告げられた。 『この戦争によって祖先からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへんな災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う。わたくしとしては、このことをどうしてもなるべく早い時期に行いたいと思う。ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだろうが、自分はどんなことになってもやりぬくつもりであるから、健康とか何とかまったく考えることなくやってほしい。宮内官はそのことを計画し実行してほしい』 昭和天皇をお迎えした国民のよろこびはたいへんなものでした。戦後65年、現在の日本がみごとに復興を果たした最大の原因は、あの大東亜戦争の責任を一身におわれ、国民を慰め励ましたい御心で、巡礼の行脚そのままに全国を行幸され、国民を感激させ奮い立たせたからでありました。そのことは、ご巡幸の際に接した多くの国民の声が証明しております。 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ■昭和天皇の全国ご巡幸(36) 《石川県》 (昭和22年10月26日~30日) 御製 月かげはひろくさやけし雲はれし 秋の今宵のうなばらの上に 「和倉温泉」 【昭和天皇の御巡幸より】 石川県での最初の御巡幸は大聖寺町で、工場を御視察、次いで橋立漁港を経て、国立山中病院で傷病者を御見舞になられた後、御泊所の山中温泉・よしの屋別荘にお入りになられた。28日陛下は県庁で御昼食、市内御巡幸の後、列車で奥能登へ向われ、七尾湾頭の和倉へ御到着。農業共同作業やイソライト工場を御視察、御泊所の銀水閣に入られた。陛下を御迎へしたこの僻遠の地では昼間から山車が出、仮装の青年男女が町を練り歩き、夜に入るや多数の漁船を動員して笛や太鼓で囃しながら、海上から御座所の真下まで漕ぎ寄せて大漁踊りを御覧に入れた。この夜は仲秋の名月で、月光は皓々と海上より御泊所の軒下までさし込む一夜であった。前掲の御製はこの時の御作である。29日は朝から雨であった。奉迎場に立たれた陛下も、奉迎の人々もズブ濡れになった。入江侍従の日記によると「能登半島の先の方の人々が全部集まった」とあるが、果たしてどの位であろうか。恐らく数万の人が集まったであろう。前夜といい、この時といい、僻地の人々が陛下を御迎えする熱気はすさまじい。30日は快晴であった。国体の開会式が行われる金沢運動場には二万余の大観衆が早朝よりつめかけていた。午前9時25分、陛下は正面スタンドの御席につかれた。直ちに選手の入場、続いて開会式、先ず東会長、次に占領軍のギーボルト石川県軍政部長、次に森戸文相、石川県知事等が挨拶を行ったが、大会役員が占領軍に遠慮して、陛下に御願いしなかったのか御言葉はなかった。陛下は、小学校児童四千人のマスゲーム、自転車競技、陸上競技を天覧になり11時頃御退場、列車で富山県へ向われた。 陛下は毎年「国体」に御出かけになられるが、その発端は22年のこの金沢の大会であった。そして24年の東京大会から天皇・皇后両陛下御揃いで御臨席になり御言葉を賜ることが定着し、現在に至っている。 【新聞人への御配慮】 今度は自動車で川の左岸を帰途につかれた。四、五分すると、たちまち車を捨てて御徒歩になった。この日は、新聞通信の人たちとは、予め協定が出来ていて、彼等は神社へ先着するか、又は遥か後方から御様子を望見しながら随従することになっていたらしく、しかもこの協定はよく守られて来たのである。ところが、途中御下車という予定外の出来事のために、今までの協定はたちまち破れて、彼等は銘々の自動車から飛び降りて、一目散に陛下の周囲へ駆けつけ撮影を始めた。陛下は何度も何度も、彼等のために変わった御姿勢で写真を御撮らせになったが、それが一段落済むと、「新聞社の人たちは締切時間があるから、先を急ぐのだろう。急ぐ人たちの自動車は、鹵簿(ろぼ)をすりぬけて先へ通れるようにしてやれ」と仰せになった。記者諸君もこの御言葉は直接耳にしたろうと思う。陛下は自動車をよけて、田舎道の傍らに佇立(ちょりつ)して居られる。洋傘を杖に。 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ★昭和聖徳記念財団 昭和聖徳記念財団ホームページ ★昭和天皇・マッカーサー会談の「事実」 ---敵将を心服させた昭和天皇の御聖徳 日本政策研究センター・アーカイブス ■昭和天皇の全国ご巡幸 《福井県》(35) 日本の心を育むネットワーク ■昭和天皇の全国ご巡幸 《山梨県》(34) 日本の心を育むネットワーク ■昭和天皇の全国ご巡幸 《新潟県》(33) 日本の心を育むネットワーク ■昭和天皇の全国ご巡幸 《長野県》(32) 日本の心を育むネットワーク ■昭和天皇の全国ご巡幸 《栃木県》(31) 日本の心を育むネットワーク ■昭和天皇の全国ご巡幸 《福島県》(30) 日本の心を育むネットワーク ■昭和天皇の全国ご巡幸 《山形県》(29) 日本の心を育むネットワーク ■昭和天皇の全国ご巡幸 《秋田県》(28) 日本の心を育むネットワーク ■昭和天皇の全国ご巡幸 《青森県》(27) 日本の心を育むネットワーク ■昭和天皇の全国ご巡幸 《岩手県》(26) 日本の心を育むネットワーク ■昭和天皇の全国ご巡幸 《宮城県》(25) 日本の心を育むネットワーク ■昭和天皇の全国ご巡幸 《京都府》(24) 日本の心を育むネットワーク ■昭和天皇の全国ご巡幸 《兵庫県》(23) 日本の心を育むネットワーク ■昭和天皇の全国ご巡幸 《和歌山県》(22) 日本の心を育むネットワーク ■昭和天皇の全国ご巡幸 《大阪府》(21) 日本の心を育むネットワーク ■昭和天皇の全国ご巡幸 《茨城県》 (20) 日本の心を育むネットワーク ■昭和天皇の全国ご巡幸 《岐阜県》 (19) 日本の心を育むネットワーク ■昭和天皇の全国ご巡幸 《愛知県》 (18) 日本の心を育むネットワーク ■昭和天皇の全国ご巡幸 (17~) 日本の心を育むネットワーク
by hagukumukai
| 2010-09-16 19:12
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